気づいたら、私は白い巨大な空間の床に横たわっていた。
窓も扉もなく、ただ白い壁、白い天井と白い床に囲まれた広い部屋。自分以外は何も存在しない空間。
「一体、何?」という率直な言葉が独り言のように口から漏れる。ゆっくり立ち上がり、ひとつの壁に手を触れてみた。ひんやりとした白い壁。
部屋の1つの壁の長さがおおよそ50メートル、高さが20メートルといったところか。照明などはなく、壁がうっすらと発光して部屋の明かりとなっているようだ。壁づたいに部屋を一周してみると、ひとつの事実が浮かび上がってきた・・・この部屋には出入り口がない。
しばらく部屋を見回して、もう一つ気づいたことがあった。部屋の真ん中に、台なのか、背もたれのない椅子なのか、箱なのかは分からないが、四角い何かが置かれている。その<四角いもの>に近づいてみる。表面を撫でたり、いろいろと押したりしてみたけれども反応はない。床と一体化しているようで、ビクとも動かなかった。
その上に座っていると、状況の整理に意識が向かっていく。「この部屋は何?」「なぜ、ここに自分がいるのか?」「どうすれば出られるのか?」「通気もできなさそうなので、いずれ、自分の呼吸で酸素がなくなっていくのでは?」などがゴチャゴチャと頭に溢れ出てきた。
そしてさらに、1つの大きなクエスチョンに気づいてしまった。「私は誰?」自分のことを思い出せない。
ただ少しだけ、なぜだか自分がズルいという感覚と、百人一首のひとつの歌を思い出した。
「山里は 冬ぞ寂しさ まさりける
人めも草も かれぬと思へば(源宗于)」
都と違って人のいない山里は寂しいものだ、という情景を歌った歌だったと思う。まさに、ひんやりとした、誰もいないこの空間は寂しさの象徴だろう。自分以外に誰もいないことを改めて肌で感じた。
少しずつ、不安と焦燥の感情が心に生まれてきた・・・ここから出られなかったらどうしよう。
と、その時、座りながら床に目をやると、小さな穴が空いていることに気づいた。これは鍵穴では?前方後円墳ではないが、丸と台形が組み合わさった穴の形をしている。そして、それは部屋を一周しながら少し感じていたひとつの身体の感覚と符合した。それは、着ている服のポケットから感じる微かなゴツゴツとした感じだ。そう、ポケットの中に鍵が入っているのだろう。
ポケットに手を突っ込み、中に入っているものを取り出した。思った通り、鍵が出てくる。そして、その鍵を鍵穴に突っ込み、回してみた。ゴトリという音が白い空間に響き渡る。何かが変化したはずだ。
○ ○ ○ ○ ○
いくら待っても、目に見える変化は起こらなかった。
このような場合、その<四角いもの>に変化が生じているのではと思うことは、自然な流れだろう。
新しい発見として、<四角いもの>の四つの側面に1cm程度の円形の浅い穴がそれぞれ一つずつ、計4つ空いていることに気づいた。これは鍵を回す前からあったのか、鍵を回した後にできたのかは分からないが、とにかく、この何の特徴もない部屋の中では、唯一、何か意味ありげなものだ。しかし、穴の中に指を押し当てたりしてみたが、何の反応もない。
もう一度、部屋を一周してみようと思い、実行に移した。さっきと同じ、ひんやりと、少し発光する壁のままだ。
一周するのに2分前後かかるため、自然と、思考がいろいろな方向に飛ぶ。この部屋に入る前に、誰かにズルいと言われた気がする。そしてそれと百人一首が関係しているような、ないような・・・。相変わらず、自分自身のことは思い出そうとしても思い出せない。
歩きながら振る手は服に当たったり、当たらなかったりするが、そこであることに気づいた。服。この服についているボタン、さっきの穴と大きさが同じでは?
急いで部屋の真ん中の<四角いもの>に駆け寄り、その服にひとつだけついているボタンを引きちぎり、穴に当てはめてみた。すると、ボタンに磁石が入っているかのように、ピタッとその穴に当てはまった。
「やった!」と小さく喜ぶも、おそらくボタンはあと3つ必要。ただ、そのボタンも間もなく見つかった。服の洗濯用のタグに、交換用のボタンが3つ縫い付けられていたのだ。
この部屋から解放されるのではないかという期待感を持ちながら、その3つのボタンをなんとか取り出し、残る3つの穴に当てはめてみた。
すると、音もなく<四角いもの>の天井面がスライドし、中身が見えた。その<四角いもの>は小さな箱だったのだ。
私は期待感を込めてその箱を覗き込んだが、驚くものを目にした。
○ ○ ○ ○ ○
私の友人がその箱の中に入っていて、こちらを見上げていたのだ。ただ、友人はあまりにも小さく・・・私の指一本分くらいのサイズだった!
ドラえもんのスモールライトを浴びたように小さくなってしまった友人ではあったが、生命の気配の全くしない異常な空間の中で孤独感・不安感が高まっていたので、このような異常な再会ではあっても、ここで生命活動を続けている友人の存在に暖かい感情が沸き起こった。
そして、その友人の傍らにも同じような箱があった。
「そっちは大丈夫?」「この状況について何か知ってる?」「そちらの箱には何が入っているの?」など、いろいろ聞きたいことがあったけれど、状況があまりに特殊だったので何から話しはじめて良いか分からなかった。それでもやっと口だけ開きかけた瞬間に、不意に、大きなアナウンスがその場に響き渡った。
「さて、ゲームです!鬼ごっこをしましょう!」
鬼ごっこ・・・?深く考える暇ももらえず、説明が続く。
「ルールは簡単です。箱の中の人にタッチすれば、あなたの勝ち。」
え、待って。でも、圧倒的に大きな私が箱の中の小さな友人をタッチするだけ。余裕では?圧倒的にこちらに有利に思えた。
ルールの説明が続く。「そして、箱の外の人にタッチされたらあなたの負け。いいですか?」
それを聞いた瞬間、ゾワッと背筋が寒くなった・・・箱の外の人だって?
頭上を見上げると巨人と化した友人が真顔でこちらに目を向けていた。失神しそうな恐怖に襲われた。たとえ友人であっても、もはや同じ生物であるとは思えない。自らの身体を守るためのアラートが全開・全身で警告を発している。この巨人が悪意を持ってこの白い部屋に手を入れてきて、もし私に攻撃を始めたとしたら、一瞬で自分の命など奪われてしまうだろう。
アナウンスが続く。「お気付きの通り、この場所にはループが発生しています。あなたの友人は、箱の中にもいて、箱の外にもいる。箱の中の友人の近くにある箱には、あなたが入っているのですよ。」
「そして、勝てば、その部屋から出られます。負けたら、その部屋から出られません。」
○ ○ ○ ○ ○
すぐにカウントダウンが始まった。心の準備も作戦を考えることも、また、友人との会話も、まったくさせてもらえない。
「鬼ごっこはじめます。321開始!」
ただここで、身体が反射的に動いた。腰をバネに手先が素早く回転し、正確に友人をタッチした。同時に、自分が何者であったか、少しだけ思い出した。そう、私は百人一首大会の優勝経験者だ。
箱の中の小さな友人は少し体勢を崩し、転んだ。と同時に、さらに小さな私が入っているはずの箱から友人が遠ざる形となった。その小さな箱の中では、小さな小さな私が、さらに小さな箱を覗き込んでいるようだった。
危機から脱したという単純な心理から安堵の念が生まれたが、刹那の後にハッとした。友人はずっとここに閉じ込められてしまうのか?
「ごめん、痛くなかった?後で・・・」
と言いかけたところで箱の天井がカチッと閉まった。「後で、助けに行くよ」と伝えられないままに。
自分の部屋の天井も閉じ、箱だけが真ん中に置いてある、白い静寂な空間に戻った。
「おめでとうございます!!」アナウンスの声が鳴り響く。
壁の一部が音もなく開いた。そこから出ろということなのだろう。友人に関する複雑な感情を残しつつも、閉じた空間から出られるという純粋な喜びに感情が溢れた。外に出たら、友人をすぐに解放してあげよう。
しかし、その扉を出た瞬間、絶望と戦慄が舞い戻って来た。
巨人となった友人が真上からこちらを見下ろしていたのだ。額から血を流しながら。そう。あのループは何も終わっていない。私はただ自分の部屋、いや箱から抜け出して、巨大な友人の部屋に入っていっただけなのだ。
空気を震わせるような友人の声がした「躊躇なく叩いたね。」友人から言われた「ズルい」という言葉と重なり合う。
そう。このゲームが始まる前に、声の主、主催者からルールの説明を受けていたんだ。百人一首に強い私は「余裕で私の勝ちじゃん」と友人の前で言ったのだ。
あぁ、性格を直さないとダメだなと思いながら、私の意識は遠のいた。